洞爺丸
2014年4月16日に起きた海難事故、セウォル号の沈没は記憶に新しい。修学旅行中だった多くの青年たちを含む299名と捜索作業員8名の尊い命が奪われ、行方不明5名を出す痛ましい海難事故となった。逃げられない空間に水が入ってくる恐怖を考えただけで卒倒しそうになる。航空機、鉄道そして船の事故はこれまでも幾度となく起こってきた。
自分が生まれる前のこと、青函連絡船の「洞爺丸」が転覆・沈没した。自分がこの事故を知ったのは三浦綾子さんの小説を読んだときだった。その時は実話なのか小説なのかよくわからなかったが後に実話であることを知り衝撃を受けた。
洞爺丸台風と被害
台風15号は、1054年9月18日にカロリン諸島付近で熱帯低気圧として発生し、21日には台風となったが、すぐに勢力が衰えた。
ところが、23日には台風に復活、23日9時には中心気圧992ミリバール(mb、現在のヘクトパスカルに同じ)、24日9時990ミリバール、25日9時には975ミリバールと次第に発達しながら台湾の南東海上で転向、急激に加速しながら北東に進み、9月26日未明に鹿児島県大隅半島に上陸、このときの勢力は中心気圧965ミリバール、最大風速40メートルであった。
時速75キロから80キロで九州を斜走。上陸後以降に勢力を増し、朝には中国地方から日本海に出てさらに時速110キロという異例の速さに加速しながら北東から北北東に進んだ。風速20m以上の暴風圏は26日段階で九州から北海道まで日本全土に広がった。
9月26日9時には964ミリバール、15時には960ミリバール、北海道西岸に達した21時には956ミリバールとなっている。その後、北海道からオホーツク海を進み、9月28日9時にカムチャツカ半島付近で温帯低気圧に変わったが、通常の場合、海水温が低下した9月末の日本海で台風が発達することはほとんど考えられないため、実際には、台風が九州に上陸する9月26日3時頃から温帯低気圧に性質を変えていた(いわゆる「爆弾低気圧」と呼ばれる状態になっていた)と見られる。
北海道に接近した頃に最盛期を迎え、同時に一時的に速度を時速40キロ以下に落としたため、北海道を中心とする北日本では猛烈な暴風による被害が大きかった。すなわち、最大風速は寿都で42.0メートル(最大瞬間風速53.2メートル)、室蘭で37.2メートル(55.0メートル)、留萌で35.2メートル(45.8メートル)に達したほか、各地で30メートル以上となった。
転覆した洞爺丸
そのため、家屋の全半壊や倒木などの風害が顕著だった。岩内町では火鉢の飛び火が原因による大火(岩内大火)で、3000戸あまりが焼失。森林が受けた風害はすさまじく、支笏湖周辺などでは全山の大木が根こそぎ倒された。かつてはほぼ全土が原生林に覆われていた北海道だが、明治以来の開拓と木材生産、そしてこの台風により、かつての威容は失われたと言われるほどである。また、青函連絡船洞爺丸の遭難では1,139名の犠牲者が出た。これは1912年の北大西洋における「タイタニック号」、1865年のミシシッピ川での「サルタナ号」の事故に次ぎ、戦争による撃沈を除けば世界海難史上3番目の犠牲者数であった(このことが、のちの青函トンネル建設のきっかけとなった)。洞爺丸以外にも青函連絡船の4隻が沈没し、多数の犠牲者を出しているほか、9月26日には、海難救助にあたっていた海上保安庁のはつなみ型巡視艇「うらなみ」が二次遭難している(乗員は全員救助)。また台風が通過した西日本でも大きな被害が出ている。
(参考、引用wikipedia)
3人の宣教師
洞爺丸には3人の宣教師が乗船していた。
ディーン・リーパー (YMCA)、アルフレッド・ストーン(メソジスト)、ドナルド・オース(メソジスト)の3名である。リーパー師は嵐の中で怖がる乗客、特に子どもたちを手品で和ませていた、と記録されている。彼らは自分たちの救命胴衣を日本人の子どもに譲った。オース師は奇跡的に助かり他の二人のエピソードを後世に語り伝えた。
(以下https://morishita.merry-goround.com/blog/toyamaru-2/より抜粋)
リーパー宣教師は恐怖におびえる乗客に、やさしく語りかけ、自慢の手品を披露、あざやかな手さばきに、子どもも大人も大喜び。一時船室に落ち着きがもどりますが、やがて船は大きく傾き、船室に水が流れこみます。リーパー宣教師は、たまたま同乗していたストーン宣教師、オース宣教師と力をあわせ、悲鳴の渦のなかで逃げまどう乗客に救命具を配り、着用に手間取る子どもや女性を助けました。ストーン宣教師は、救命具のない学生を見つけ「あなたの前途は長いから」といって救命具をゆずりました。リーパー宣教師は女性や子どもたちに救命具を着せてやり、最後まで励ましの言葉をかけ続けたと伝えられています。
ディーン・リーパー宣教師の長男スティーブンは、やがて広島で平和運動の働きに従事し、長女リンダは『氷点』に父親のエピソードが書かれたことに感謝し、三浦綾子さんを訪ね、綾子さんもその時のことをエッセイ集『泉への招待』所収の「ミス・リーパーの来訪」に書いています。
ふいに近くで女の泣声がした。胃けいれんの女だった。
「ドーシマシタ?」
宣教師の声は落ちついていた。救命具のひもが切れたと女が泣いた。
「ソレハコマリマシタネ。ワタシノヲアゲマス」
宣教師は救命具をはずしながら、続けていった。
「アナタハ、ワタシヨリワカイ。ニッポンハワカイヒトガ、ツクリアゲルノデス」
ちなみにこの事故の1ヶ月前にこの航路を使った昭和天皇がこの事故の報を受け和歌を詠んだ。
『その知らせ 悲しく聞きて わざはひを ふせぐその道 疾くとこそ祈れ』
【ゆっくり解説】裏返しになった船から出られない……史上最悪の海難事故「洞爺丸事故」
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