価値5

相対的価値と絶対的価値

自分は言葉を知らないので、表現が正しくないことを承知しているが価値にはいくつかの種類があるように思う。「相対的な価値」とはもっと違う意味があると思うのだが、ここでは「お金などの価値に置き換えることによって誰もが認める客観的な価値」と定義しておきたい。

例えば高級車の価値はその販売価格で査定することができる。お金には客観的な価値がありそれは多くの人にとって共通認識であるから、30万円の車と3000万円の車では3000万円の車の方が相対的に価値があると判定できる。

これに対して絶対的価値というのは、ここでは「だれかがその程の価値があると認めた故」の価値のことである。オンボロのポンコツ車であっても、世界一クルマに精通している人が「これは1億円以上の価値がある」と言えば、誰にもそう見えなくてもその価値になる。この場合価値を決める人自体に価値(権威)がある、と言うことになる。

はてな茶碗

自分は落語が大好きである。最近は機会がないのでほとんど行っていないが、落語好きな父と一緒に、浅草演芸ホールや東洋館、新宿末廣亭、上野は鈴本演芸場などによく足を運んだ。一人で行くことも多く、行けば最終まで過ごしてしまう。

古典落語に「はてなの茶碗」と言う演目がある。うまく説明できないのでwikipedieからそのあらすじを引用させていただきたい。

京都、清水の音羽の滝のほとりで、大阪出身の油屋の男が茶屋で休憩していた。そこに京では有名な茶道具屋の金兵衛、通称「茶金」が、茶屋の茶碗のひとつをひねくり回しながら、しきりに「はてな?」と首をかしげた後、茶碗を置いて店を出た。それを見ていた油屋は、あの茶金が注目していたことからさぞかし値打ちのあるものに違いないと考え、茶屋の店主にその茶碗を買いたいと申し出る。断る店主であったが、油屋は最終的に二両を提示し、茶碗を手に入れる。

油屋はさっそく京の茶金の店へ押しかけ、千両の値打ちがあると言って茶碗を売り込むが、どう見てもただの数茶碗に番頭は買い取りを拒否する。しかし、自信がある油屋はごね、番頭と押し問答となり、最終的に金兵衛自ら出てくる。茶碗について聞かれた金兵衛は、ヒビも割れもないのに、どこからともなく水が漏れるので、「はてな」と首をかしげていただけだと明かす。油を仕入れる金も残っていないと意気消沈する油屋であったが、通人でもある金兵衛は、油屋から三両で茶碗を買い取り、いつか親元へ帰って孝行できるよう、地道に励むように諭す。

後日、この話が評判となり、茶碗を実見した関白・鷹司公によって「清水の 音羽の滝の 音してや 茶碗もひびに もりの下露」という歌が詠まれる。さらには時の帝も興味を持ち、この茶碗から滴った水は御裾を濡らした。茶碗には帝の筆による「はてな」の箱書きが加わり、好事家の鴻池善右衛門が千両の保証金と引き換えに預かるという体裁で、金兵衛から茶碗を買い取る。思いがけない展開であったが、やはり通人である金兵衛はこれを自分だけのものとせず、油屋を探し出すと半分の五百両を渡し、残りを慈善の施しに使い、余った分で家中の者たちのための宴を開きたいと告げる。油屋は深く感謝し、金兵衛のもとを辞する。

すると後日、再び油屋が金兵衛の元に現れ、「十万八千両の大儲け」だという。理由がわからない金兵衛が問いただすと油屋はこう答えた。

「今度は水の漏る瓶(水瓶)を持って来ました」

「茶金」が「はてな」と首を一度傾げたらいくら、と言う価値があると言われていた。茶碗の価値というより「茶金」のネイムバリューによってこの茶碗が価値あるものと勘違いされたのである。

本当に価値あるもの

聖書では「真に価値あるものは目に見えない」とある。目に見えるものは一時的であり、目に見えないものは永遠に続くとされている。

神、存在、命、時間、言葉等々。全て大切なものであるが、いまの自分にとって価値あるものはやはり神様の言葉だろうか。勿論「神様」という存在があるという前提だが。これがなければ自分は生きていくことができない。

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