死生観とキリスト教

死生観が教えるもの

死後の世界を語れる人はいない。死後の世界を見たという人はいるけれど結局は蘇生し死後の世界を体験したわけではない。キリスト教界には死後に対する考え方はいくつか存在する。亡くなって直ぐに天国に行けるという考え方をしている教団教派も多い。しかし聖書には「死」は眠りだと教えている。聖書は次のように語っている。

兄弟たちよ。眠っている人々については、
無知でいてもらいたくない。
望みを持たない外の人々のように、
あなたがたが悲しむことのないためである。

わたしたちが信じているように、
イエスが死んで復活されたからには、
同様に神はイエスにあって
眠っている人々をも、
イエスと一緒に導き出して
下さるであろう。

 わたしたちは主の言葉によって言うが、
生きながらえて
主の来臨の時まで残るわたしたちが、
眠った人々より先になることは、
決してないであろう。

すなわち、
主ご自身が天使のかしらの声と
神のラッパの鳴り響くうちに、
合図の声で、天から下ってこられる。
その時、
キリストにあって死んだ人々が、
まず最初によみがえり、

それから生き残っている
わたしたちが、
彼らと共に雲に包まれて引き上げられ、
空中で主に会い、
こうして、
いつも主と共にいるであろう。

But I would not have you to be ignorant,
brethren, concerning them which are asleep,
that ye sorrow not,
even as others which have no hope.

 For if we believe that Jesus died
and rose again,
even so them also
which sleep in Jesus will
God bring with him.

 For this we say unto you
by the word of the Lord,
that we which are alive
and remain unto the coming of the Lord
shall not prevent them which are asleep.

 For the Lord himself shall descend
from heaven with a shout,
with the voice of the archangel,
and with the trump of God:
and the dead in Christ shall rise first:

Then we which are alive
and remain shall be caught up
together with them in the clouds,
to meet the Lord in the air:
and so shall we ever be with the Lord.

第1テサロニケ4:13-17

 

聖書には明確にこのように教えているが死んですぐに天国に行くとか携挙があるとは言っていない。しかし、そのようなことを書きたいわけでは無いのでこれらのことには言及しないが、死を経験していないものが死を考える時、自分を「死」の側において「生」の領域から想像するしかできないことを言いたかったのである。死んだのちは眠った状態であるので「生」を考えることはできない。また死んでいることを自覚することもできない。「死」の側に自分をおいて「生」の側から客観的にそれを見たときに、寂しさや後悔などの感情が生まれてくるのかもしれない。またやり残したことや、やってみたいことに思いを馳せるかもしれない。

実は今朝、何気なく観ていたらyoutubeのホーム画面が目に入りそこに昔何度か観た懐かしい動画が紹介されていた。人の死を取り上げることが軽率であったら申し訳ないが、自分はこの動画を何度も観て考えさせられた経験がある。

死生観と徳永兼一郎

昔からサイトウキネンオーケストラに興味を持っていた。世界最高峰のオーケストラであり幾つもの大舞台で公演したモンスターオーケストラだ。小澤征爾さんが指揮、総監督を務めるオケで小澤さんらを育てた斎藤秀雄先生を偲んで没後10年を迎える1984年に門下生たちが集まって始めたオーケストラである。年に一度しか集まらないので「七夕オーケストラ」とも言われ、毎年長野県の松本で公演を行ってきた。この中に徳永兼一郎(本名は健一郎)さんがいらっしゃる。日本を代表するチェリストでN響の首席チェリストでもあった。徳永さんの映像は何度も観ておりバイオリニストの弟さんである二男(つぎお)さんとともに活躍する姿がとても格好良くファンでもあった。この兼一郎さんが癌に侵され何度も手術を受けた。が、全身に転移が確認され神奈川県のホスピスで緩和治療を受けることになった。今日、久しぶりに観た動画はそのホスピスで最後のコンサートを行った際の貴重なビデオである。このコンサートから45日後にその生涯を閉じるのである。自分のように「生きることが辛いからといって死を望む」ような人間が恥ずかしくなるような動画である。多くの友人に支えられ励まされて、最後まで彼らを喜ばせようと企画された15分ほどのコンサート。演目は2曲。涙を見せながら感謝を表す兼一郎さんを観ているだけで感動する。「生」のギリギリの淵から「死」を見た人の涙は多くのことを語っている。本当に考えさせられた。

死生観とキリスト教

キリスト教は自殺を禁じている。禁じていてもしたくなるときはあるし、死に引き寄せられる病もある。が、キリスト教の価値観では自分自身は自分のものではないと教える。「贖い(あがない)」というが、自分のような罪に汚れた存在をイエスキリストは大きな犠牲で買い取ってくださったというのがその本質である。贖われたから自分はイエスキリストの所有になっている。生殺与奪(せいさつよだつ)の権利はイエスキリストにしかない、というのがキリスト教の教えでありこれがあるから自ら死を選んではいけないのである。これもまた考えさせられる価値観である。前出の兼一郎さんは音楽で人々を励ますことができ多くの友人からも慕われ「生きている価値のある人」に見える。逆に私のような人間は生きているだけで誰かに迷惑を掛け、生きているだけで人を不幸にしている存在である。こういう人間は生きる価値があるのだろうか。人間的に見たら前者は生きる価値があり後者は無いと思える。だから自分は死を選びたくなるのだ。しかしキリスト教の神様はそのような価値のない人間に対しても「価値がある」と認めてくださり、ご自身の命を十字架において犠牲にされた。何とも勿体無い話である。このキリスト教の価値観と人間的な価値観の狭間で悩んでしまう。未だ結論は出ないが、キリストの犠牲を信じるものとしてはせめて死ぬときは「イエス様のために死にたい」と思っている。無駄死にはしたく無い。なんでも良いからイエス様のお役に立つような死に方をさせていただきたいものである。

余談ではあるがサイトウキネンオーケストラについてはネット上にたくさんの情報があり動画もある。是非検索して興味を持っていただけたら幸いである。自分はサイトウキネンオーケストラにも参加している潮田益子さんというバイオリニストが大好きであるが残念ながら8年ほど前に亡くなってしまった。

徳永兼一郎氏の動画はこちら

サイトウキネンオーケストラについての動画はこちら

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