イエスキリストに忠実な人たち

キリスト教の歴史1

キリスト教の歴史を調べてみると、宗教的堕落の時代や世俗との結びつきで教会が力を無くした時代、また教皇が自分を神の代理人と言って聖書の内容を変えたり聖書に無い教えを教義にした時代、教皇が更迭される時代など様々な時代があることがわかる。しかしいつの時代においても神様に忠実であろうとする人たちは存在する。聖書に誠実であろうとするかつての信仰者たちが現代に、キリスト教の真理を伝えてくれているのだと思い心から尊敬と感謝の気持ちを持つものである。

聖書に忠実な人たち…。すぐに思いつくのがアーミッシュである。2006年に、のどかなアーミッシュに村の学校に銃を持った犯人が無差別に子どもたちを撃つという悲惨な出来事があった。ある少女は自分よりも幼い子の身代わりになると言って凶弾に倒れその妹も銃殺された。その父親が、犯人を赦すというとんでもない声明を出すことで一躍話題となったことがある。昔ながらの信仰を継承し世俗に染まることなく、ただただ神に対する忠実な信仰を持ち続けるグループだ。

キリスト教の歴史2

キリスト教にはカトリックとプロテスタントという大きなグループがふたつあると言われることがある。自分はこの表現が正しくないと常に思っている。自分のような者が語る資格もないが、聖書に忠実なグループをキリスト教とするなら、語弊を恐れず言うと、カトリックはキリスト教ではない。まず聖書の教えが違う。十戒が既に違う。聖書はどこを探しても霊魂不滅を教えてはいない。更に昔の聖人に対して祈ることも、聖書の教えではないし色々な形あるもの(絵画、聖骸に関するもの)を礼拝や祈りの対象にすることも聖書の教えではない。教皇も人間であり決してイエスキリストの権能を授かった代理人ではない。勿論、偽りの教えに惑わされているカトリック信者がキリスト教信者の大半を占めていることも理解しているしその方々を責めるつもりは全くない。事実カトリックの方で素晴らしい生き方をされている方、学ぶべき生き方をされた方は非常に多い。私が言っているのは教皇権やその教え自体のことを指しているのであり、それがもはやキリスト教ではないと言っているのである。

このキリスト教に似た偽りの宗教に苦しめられながらも信仰を清く保ち、神の前に誠実であろうとした人々がいた。また現在もその流れをくむ方々がいる。ワルド派(ワルデンセス)と言われる人たちである。12世紀後半、ワルドーによって組織されたグループであるが世俗に染まることなく、それまで司教しか手にすることができなかった聖書を丁寧に写し(写本)、その中の多くの言葉を暗唱していた人たちである。現在も北イタリヤ地方に2万人ほどのワルド派の人たちがいると言う。

このワルド派に関してエレン・ホワイトという人が「各時代の大争闘」という本で次のようなことを述べている。

ワルド派の人々は、ヨーロッパにおいて最初に聖書の翻訳を手にした人々の1つであった。宗教改革の数百年も前から、彼らは、自国語で書かれた聖書の写本を持っていた。彼らは混ぜ物のない真理を持っており、そのために、特に憎しみと迫害とを受けたのであった。彼らは、ローマの教会は黙示録の背教したバビロンであると宣言し、生命の危険をもかえりみず、その腐敗に抵抗するために立ち上がった。長期にわたる迫害のために、信仰の妥協をしたり、独特の主義を少しずつ放棄したりする者もあったが、真理に堅く立った人々もいた。暗黒と背教の全時代を通じて、ローマの至上権を否定し、聖画像崇敬を偶像礼拝だ

として拒み、真の安息日を守ったところのワルド派の人々がいた。最も激しい弾圧のさなかで、彼らはその信仰を保った。サボア人たちのやりに深手を負い、ローマの火刑柱で焦がされようとも、彼らは神の言葉と神の栄光のために、ひるまず堅く立ったのである。そびえ立つ山々のかげに―それはいつの時代においても、迫害され圧迫された人々の避難所であったが―ワルド派は隠れ場を見いだした。

そしてここで真理の光が、中世の暗黒のただ中にあって燃え続けた。ここで、1000年以上もの間、真理の証人たちは昔ながらの信仰を保持したのであった。

青年たちは牧師たちから教育を受けた。普通の学問の諸分野に注意が向けられる一方、聖書が主要な科目であった。マタイやヨハネによる福音書は、多くの使徒書簡とともに、暗記された。彼らはまた、聖書の写本に従事した。聖書全体の写本もあれば、短い部分的なものもあり、それには、聖書の解説ができる人々による簡単な聖句の説明がついていた。こうして、神よりも自分たちを高めようとする人々によって長く隠されていた真理の宝が明らかにされた。忍耐強くたゆまぬ努力によって、時には暗い洞窟の奥深くで、たいまつの光をたよりに、聖書は1節ずつ、また1章ずつ書き写されていった。こうして働きは続けられ、あらわされた神のみ旨は純金のように輝き出た。試練を経たために、神のみ旨がどんなにかいっそう輝かしく、明らかで強力なものとなったかは、その働きに携わった者たちにしかわからない。そして天使たちが、これらの忠実な働き人たちを取り囲んでいた。

キリストの精神は、伝道の精神である。心が新たにされた人のまず最初の衝動は、他の人をも救い主に導こうとすることである。これが、ワルド派キリスト教徒の精神であった。彼らは、単に自分たちの教会内において真理を純潔に保つだけでなくて、それ以上のことを神が要求しておられると感じた。彼らは、暗黒の中にいる人々に光を輝かす厳粛な責任が自分たちに負わされているのを感じた。こうして彼らは、神のみ言葉の偉大な力によって、ローマが人々に負わせたくびきを砕こうと努めた。ワルド派の牧師たちは宣教師としての訓練を受け、牧師の職務にたずさわる者はみな、まず伝道者としての経験を持たなければならなかった。各自は、本国の教会の責任を負うに先だって、どこかの伝道地で3年間奉仕しなければならなかった。この奉仕には、まず克己と犠牲とが要求されたが、困難をきわめた時代に牧師の生活をする者にとって、まことにふさわしい出発であった。聖職に任じられた青年たちは自分たちの前途に、世俗の富と栄光ではなくて、労苦と危険の生活、あるいは殉教者の運命を見た。宣教師たちは、イエスが弟子たちをつかわされたように、2人ずつで出かけた。青年たち1人1人に、たいていの場合、年長で経験に富んだ人が組み合わせられ、青年たちは、彼を訓練する責任を負った同伴者の指導の下でその教えに従わねばならなかった。こうした同労者たちは、いつもいっしょにいたわけではなかったが、たびたび祈りと相談のために集まって、互いに信仰を強めあった。

(エレン・ホワイト「各時代の大争闘」より)

聖書の学び

難しくてなかなか進まないが現在「ヨハネの黙示録」を勉強している最中である。竜(サタン)がキリストに勝てないことを知り、その腹いせにキリストの側につこうとする人間を騙したり迫害することでサタン側につかせようと画策している。そこで登場するのが竜の実働部隊となる「海からの獣」と「地中からの獣」である。また後に獣の像という存在も出てくる。これらが何を意味しているのかは今日の本題からずれるので明言を避けるが、終末時代にあって教皇権とアメリカの動きには要注意である。

サタンが本気で人々を惑わし、キリストのような奇跡を行って自分に従い自分を礼拝することを強要する時代が間も無くやってくる。自分は無神論者だ、と言っても通用しない。神の側につくか、サタン(獣)の側につくかのどちらかを選択しなくてはならないのである。勿論そのような迫りは自分にもくる。その時に各々自分の立場を明確に表明しなくてはならない。神の側につくことは目先のことだけを考えると不利益なことばかりがあるように見える。しかし最終的な勝利もまた神の側にある。

自分ひとりが迫られたら「自分は真の神を選ぶ」と言えそうな気がするしそうしたいと願っている。しかし、もしも「神を選んだらお前の子どもたちを皆殺しにする」と言われたらどうだろうか。目の前で自分の子どもが迫害の末殺されることを考えたらその決心は鈍くなってしまうのではないだろうか。正直なところ自信が無い。が、ワルド派の生き方に倣って最後まで忠実に生きたいものである。

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