弱さと強さ

弱さと強さを感じる時

今日は妻の誕生日である。投稿を読んでくださっている方はご存知のことだと思うが現在離婚を迫ってくる妻のだ。毎日、まだ生きていることに失望を感じて朝を迎えるのだが、いつも気になるのが郵便受けの中味。離婚を催促するかなり厳しい手紙が定期的に届く。郵便が届く10時から11時の間は特に緊張する。それを過ぎると、やっと息が吸える気分になる。しかし、よく速達で送られてくるので13時頃まで本当にその日が無事なのかは分からない。ここ1年半ぐらいずっと心に平安はない。妻は急に別居を申し出てきて毎日荷物を整理し出した。その様子を見ているだけで恐怖だった。またよく言われていたのが「出ていけ」と言う言葉。出て行く場所がないにもかかわらず家から出ていけと言う。仕方がないので2019年の後半は市内に出て夜中じゅう歩き回ったり、駅で寝たり、ネットカフェのお世話になってなるべく家にいない様にした。車も使えないからスーパーカブで出かけるしかない。最寄り駅までは15kmだが豪雨災害の工事のため遠回りをしないといけない。寒さを堪えてバイクに乗るから駅に着く頃には手足の感覚がなくなっている。居場所もなく心の平安もない状態。現在は別居中なので出ていけとは言われないが、離婚を迫られまたもや恐怖に怯える毎日。いつになったら平安が与えられるのか必死に祈る日々を過ごしている。しかし不思議なもので、これほど恐怖心を持っているにも拘らず思い出すのは妻との楽しかった思い出ばかり。ダイビングを始めるときのCカード取得の講習はふたりで受けた。毎日ハプニングがあり1日を振り返り思い出して笑っていた。付き合っていた頃はふたりの仕事時間が違うため中々会うことはできなかった。時々食事に行く程度だったが妻は色々なお店をよく知っていた。毎回新しいお店を紹介してもらった。妻が1度仕事を離れて実家のある沖縄に戻る際、何かやり残したことは無いかと聞いたところ、スキーに行きたいと言うので仕事が終わってからダッシュでナイター営業をしているスキー場に行った。が、着いたのが終了30分前で着替えてリフトに乗ったら頂上で10分前になっていた。1度だけ滑ってスキーは終わりとなってしまった。とにかく彼女といると楽しくて仕方なかった。自分はバカだから今でもその頃と同じ気持ちなのだが妻の心にもう私はいない。
祈っているときは神様の不思議な力を感じることもあり、何かが起こりそうな予感するするのだが祈りが終わると現実に引き戻される。

今の自分は仕事もなく家族もなく全く何もなくなってしまった状態。惨めなものである。高校時代の同級生は色々なところで管理職や役員になっている。仕事をしないで生活できる友人も数名いる。その中で生活もできないのに仕事をしていないのは自分だけである。本当に自分の弱さを痛感させられる。自分の惨めな姿がはっきりと写し出され消えたくなる。しかし、ひとつだけ言えることがある。いま頼れるのが神様だけである、と言うことは実は強い、と言うこと。全てを所有して、全ての力を持っていて不可能がない神様にだけ頼る今は人生の中でもっとも強い状態なのではないかと思っている。負け惜しみの様にも聞こえるが本気でそう思う。

弱さと強さを感じた人

聖書にサウロ、後の名をパウロという人が出てくる。彼は元々ローマの市民権を持つユダヤ人でガマリエルの門下生だった。今で言う超エリート。将来が約束されている存在であった。しかし彼が変えられて、それまで迫害してきたクリスチャンを擁護し、さらにその指導者になる。各地に教会を建て教会を組織して、その働きの故に何度も投獄され命の危機に瀕する状況があった。彼は何かの持病を抱えていたと考えられるがそれに対して何度も祈った場面が出てくる。その執拗な祈りに対する神様の返事が次の言葉だった。

ところが、主が言われた、
「わたしの恵みはあなたに対して
十分である。わたしの力は弱いところに
完全にあらわれる」。
それだから、
キリストの力がわたしに宿るように、
むしろ、喜んで自分の弱さを誇ろう。
だから、わたしはキリストのためならば、
弱さと、侮辱と、危機と、迫害と、
行き詰まりとに甘んじよう。
なぜなら、わたしが弱い時にこそ、
わたしは強いからである。

And he said unto me,
My grace is sufficient for thee:
for my strength is made perfect in weakness.
Most gladly therefore will I rather
glory in my infirmities,
that the power of Christ
may rest upon me.
Therefore I take pleasure
in infirmities, in reproaches,
in necessities, in persecutions,
in distresses for Christ’s sake:
for when I am weak,
then am I strong.

第2コリント12:9-10

パウロはこの弱さを誇ることにした。目の病だったのか他の病気だったのかは分からないがとにかく神様はその弱いところを通して神様の恵みが十分に表されるのだとパウロを諭したのである。

弱さと強さを感じて変えられた人

先日、動画共有サイトを観ていて非常に惹きつけられるお話に出会った。キリスト教界では個人や集団が体験したことを通して神様がしてくださったことを人々に披露することを「証(あかし)」と言う。この下地さんと言う方の証がとても興味深く感動しながら聴かせていただいた。人それぞれに歴史があり、またその歴史の中で神様が個人を非常に大切に導いておいでになることがよく分かった。今、人生において何かの弱さを示されているかたの一助になればと思いこの証を共有させていただきたい。
証の動画はこちら。(証は7:15から)

 

あなたの心配ごとや試練が
何であろうと主の前に事情を打ち明けなさい。
・・・あなたが困惑や困難から
抜け出す道が開かれる。
あなたは自分が弱く無力で
あることを知れば知るほど、
イエスの力によって
ますます強くなる。
キリストの心の中は神との完全な
調和に支配されていたので、
完全な平安があった。
彼は称賛に得意になったり
酷評や失望に落胆したりなどされなかった。

エレン・ホワイト 各時代の希望中p49、51

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