結婚記念日

17年前

このような状況にいる自分であるが今日は結婚記念日である。2004年3月22日、自分たちは結婚した。近くのホテルにあるチャペルで挙式。信頼する牧師先生に司式をお願いし自分たちは神様の前で誓約し夫婦となった。またそのホテルにあるバンケットルームをお借りして、自分たちがアレンジした菜食メニューで披露宴を開催していただいた。お越しくださったのはおよそ200名。手前味噌だがとても思い出に残る良い式だった。自分が大好きだった妻のおばあちゃんもこの時は存命でわざわざ沖縄から駆けつけてくれた。この時、少しだけハプニングがあった。実は式の1週間ほど前から体調が良くなかった。学期末、年度末の疲れぐらいに思っていたが日に日に腹部の痛みが増してくる。そしてどうしても我慢できず、式の前日(日曜日)に救急で少し離れた医療センターに運ばれた。診察したのは結構気の強そうな女医さんで明らかに自分より年下であった。触診や血液検査の結果「盲腸ですのですぐに手術をしましょう」と言われた。翌日結婚式を控えているのでそれは出来ないというと「死んでもいいんですか?」と言われた。かなり強い語調でこちらの事情などどうでも良いという感じであった。一度は手術を受けようかとも思ったがそうなれば結婚式はできなくなる。関東や沖縄など遠方から既に親族やお客様が来られている。今更キャンセルできない。どうしようかと悩んでいたら、妻が「あの人に代わってもらおう」と言い始めた。自分の同級生で同じ職場で働く友人がいる。彼はなんとなく顔立ちが自分に似ているのである。妻はその友人に代役をお願いして結婚式をするから手術を受けたほうが良いのではないかとアドバイスしてくれた。一瞬そうだな、とも思ったがやはり誓約がある。一般のキリスト教式結婚式で行われる、偽牧師がやる誓約とは違う。こちらは本物の牧師先生が神様の権能を授かって式をしてくださり、その前で誓約するのだからやはり本人でないとまずいと思い直し、気の強い女医さんにどうしても手術はできないことを伝えた。医師はかなりご立腹の様子ではあったが翌月曜日が祝日のため医療機関はやっていない、そこで式場近くにある救急病院に連絡をしてくれ何かあった時の対応を頼んでくれた。また、手術までは薬で落ち着かせるが痛み止めなど定時に飲むことをきつく言われた。結局式や披露宴の合間に係りの人が薬を持ってきてくれそれを飲み続けて何とか式を終えることができた。式の翌日、すぐに病院に行くつもりだったが親戚をお見送りしたり色々しなくてはならないことが立て込んでいて3日ほど病院に行けなかった。実家の両親も帰路についたのでそろそろ病院に行こうと思ったが、すぐに病院に行くことを約束していた例の女医さんのところには、これだけ遅くなってしまったので行きづらくなってしまった。仕方がないので近くの総合病院に行った。一通りの検査をして結果を聞いてみて驚いた。自分は盲腸ではなかった。こちらの先生がいうには「憩室炎」とのこと。盲腸に症状も痛む部位も似ていることから間違われることがあるという。「その女医さんもまだ若いから間違えてんだろうね。手術しなくて正解だったよ」と言われた。憩室炎は手術で治るのかを聞いてみたが、根治には至らないという。再発する可能性が高く、自分は手術を勧めないとその医師はいった。結局投薬で様子を見ることにした。色々なことがあってバタバタとしてしまった結婚式だったが一生の思い出となる式となった。

そして今

今は何度も書いているが妻から離婚届が届き、離婚を催促される日々を送っている。結婚後いろいろなことがありながらも二人の子どもにも恵まれ、特に下の子の命が支えられそれなりに幸せを感じていたが、自分が幸せを感じるのと反比例して妻は徐々に自分に対する気持ちを失って行ったのだと思う。別居から離婚請求、そして失業。この17年間の自分の変貌がドラマのようだなと思ってしまった。どこまでも落ちて行く。祈っても祈っても道は祈った方向と反対の方に導かれる。神様が舵を取っているのでこちらの方に落ちて行くことがご計画なのだろうか、とまた不信仰な気持ちになってしまう。昨日、自分が住んでいた家に引越しの荷物を少しだけ整理するために行ってみた。1年ほど前までここで家族4人が生活してきたことを考えただけで涙がこぼれた。情けない。本当に惨めになってしまった自分が情けない。家族のためにもしっかりしないと行けないと思いながら、やはり泣くことしかできない。帰りに、遠回りにはなるけれどいつも自分が祈るために通っていた通称「祈りのロード」を通って帰ってきた。当時、家族もいたので家で泣くこともできなかった。だから夜な夜な車でこの「祈りのロード」に出かけ叫びながら、大泣きしながら祈りつづけていた。あの時の祈りは全てその通りには聞かれず、祈ったのと反対の方向に導かれた。人間的には状況は悪くなる一方にしか見えない。

今言えること

3日ほど前に「ダニエル書」の勉強を終えた。が、自分ではもう少し深く学びたい気持ちがありもう一度ダニエル書を最初から学ぶことにした。今日は第3章を学んだ。3章はネブカデネザル王が巨大な金の像(高さ27m)を建立しそれを国民に拝ませる命令をだす場面から始まる。しかしダニエルの友人3人はこの命令に従わなかった。王はもう一度猶予を与えるがそれでも彼らは金の巨像を拝むことをしなかった。立腹したネブカデネザルは彼らを普段よりも7倍熱く燃やした炉に投げ込んだ。投げ込んだ屈強な人々が焼け死んでしまうほどの火炎であった。しかし、投げ込まれた3人の青年の他に天使のようなもう一人が現れて火の中を歩いている姿がネブカデネザルには見えた。そして炉から出てきた3人の青年は髪の毛一本すら燃えつくことはなかった。そのようなところを学んでいた。ある解説書にはこの炉はこの世の中であると考えることができると書いてあった。この生き地獄のような世界に生きる自分たちに、火の災いが襲うことが無いようイエスキリストが常にそばにいて守ってくださっている、と。どん底のどん底で迎えた結婚記念日。17年目の結婚記念日はとんでもない状況の渦中にあるが、イエス様が共にいてくださる、という信仰はまだ少し残っている。こんな状況だからこそ、より近くにいてくださっているはずであることを信じたい。しかし神様の存在を確認できる術がないので、また神様の祝福から遠く離れてしまっている気がして少しずつ神様が見えにくくにっていることも事実である。そんな状況だからこそ、自分の信仰を奮い立たせる意味でもこう言いたい。「たといそうでなくても神様は共にいてくださっている。イエス様が自分を必死に守ってくださっている」と。

あなたが水の中を過ぎるとき、わたしはあなたと共におる。川の中を過ぎるとき、水はあなたの上にあふれることがない。あなたが火の中を行くとき、焼かれることもなく、炎もあなたに燃えつくことがない。イザヤ43:2

When thou passest through the waters, I will be with thee; and through the rivers, they shall not overflow thee: when thou walkest through the fire, thou shalt not be burned; neither shall the flame kindle upon thee.

神は我がやぐら

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