今日のこと
今朝も送迎の途中で電話があり外来のおじいちゃんを迎えに行って欲しいと言われた。昨日投稿した記事にある「経札」のおじいちゃんである。行ってみるといつもいる部屋のドアが開いており玄関も空いていた。少し認知症も入っているので万が一どこかに出歩いて分からなくなっていたらどうしようと不安になった。とりあえず自分がきていることを知らせるために自宅前に車を置いて徒歩でそこらへんを探し回った。これは本来病院の送迎がする仕事ではない気がしたが、自分の親だったらどうするだろうと考え探し回った。10分ぐらい周辺を探し歩いたが見つからなかった。もう一度家に戻ってみるとおじいちゃんがいた。軽く手を挙げて「よろしく」と言って車に乗った。どこにいたのか今でも分からないがとりあえず見つかったので病院に向かった。今日はどうしてもやりたいことがあった。それは自分の務める病院で外来受診すること。結構遠くの送迎もある日で、更に医療ゴミも多い日だったので時間内に終わるか不安だったが何とか終えることができたのでそのまま外来に向かった。先日血液検査などを受けてそのままになっていたので今日は薬をもらいたく受診した。先ほどまで職場にいた人たちが受付や医療スタッフとして周りにいたので何とも恥ずかしい気持ちになった。先生の人柄が出る優しくも的確な診断で自分の悪いところが全て分かった。しかも以前に他の病院でも指摘されたことなど全てがその通りだった。おっとりしていて人柄はとても良いが腕前も素晴らしい院長だと悟った。結局処方箋をもらい今日は終了。外来の時に少し待つ時間があったのでカバンから「聖書研究ガイド」と言う冊子を取り出して読んでいた。そこに次のようなことが書かれていた。
ここで特に興味深いのは、主がアブラムに「わたしはあなたの盾である」と言われていることです。人称代名詞(あなたの)は通常、個人的な関係を表すために用いられます。神は彼と一対一の関係を望まれましたが、私たちに対しても同じです。
神の名称として「盾」が用いられるのは、聖書においてここが最初です。聖書中、他の聖書の記述が神についてこの言葉を用いることはあっても、神ご自身を表すためにお用いになったのは唯一ここだけです。
「キリストが私たちに対してお持ちになる関心は、ありふれたものではなく、母親がその子どもに対して持つそれよりも強いものです。…キリストは、あなたの安全を彼の保護のもとに置かれる。…私たちの人間的な弱さは私たちが天父のみもとに行くのを妨げない。キリストが、私たちの取りなしのために死なれたからである」(エレン・ホワイト)
天国のこと
自分は何故天国を望みそこに行きたいと思っているのだろうか。天国に行ってやってみたいこと、会ってみたい人、話したい人等々はあるが天国を望む理由ではない。やはり天国を望む理由はただ一つ、そこにイエス様がいらっしゃるからだと思う。イエス様は世界中の、しかも今だけでなくこの6000年に渡る人類歴史の様々な人をお救いになる。その数はおびただしい数になると思う。自分が救われる時にはその中の1人として救われると思っていた。しかし、前述の文を読んでいてそうではないように思えてきた。イエス様はこの自分を個人的に救い、ご再臨の時には個人的に声をかけてくださるのだと思えた。「おかえり。地上では色々な苦労があったけど全部見ていたよ。よく頑張ったね。よく耐えたね。失敗もたくさんあったし罪もたくさんおかしたけどそれは全部精算済みだから心配しなくていいよ。君が天国に来ることを信じて心待ちにしていたよ。本当におかえり」、そんな言葉をかけてもらえるような気がした。そのような光景を思い浮かべただけで涙が出てきた。人の目から全く涙をぬぐいとってくださる天国であるが、感動の涙も流さないのだろうか?涙もろい自分はイエス様に声をかけていただいただけで大泣きしそうだ。多くの中の1人ではなく自分1人を個人的に救ってくださるイエス様の愛に心から感動した。
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