どういうことなのか?

初代文集

エレンホワイトの著書に「初代文集」がある。エレン・ホワイト自身が活躍した初期に見た幻を中心に文章は展開していく。非常にダイナミックで学ぶ所の多い書物である。先日Facebookを見ていたらどこかに「サタンは初代文集を読ませまいと必死に抵抗している。サタンはこの書物を人類が読むことを恐れている」という書き込みがあった。ならばサタンを困らせてやろう、と先週末から初代文集を始めから読み返している。多くの考えさせられる言葉に巡り会うことができた。自分が現在直面している状況、苦境についても多くのことを教えてくれている・

もしわれわれが試練に打ち勝ち、サタンの誘惑に勝利するならば、われわれは金よりもはるかに尊い信仰の試練に耐え、さらに強くなり、次の試練に当面する準備がよくできる。しかし、もしわれわれが、サタンの誘惑に圧倒されて負けるならば、われわれは弱くなり試練の報賞も受けず、次の誘惑に対する準備もよくできないのである。こうして、われわれは徐々に弱くなり、ついにサタンの思いのままに捕虜にされてしまう。われわれは神の武具をすべて身につけて、いつでも暗黒の勢力と戦う用意がなければならない。誘惑や試練が襲ってくる時に、神の所に行き、熱心に神に祈り求めよう。神は、われわれに何も与えずに去らせることをせず、われわれに、勝利するための、そして敵の力を打ち破るための、恵みと力とをお与えになる。ああ、すべての者がこれらのことの真相を知り、イエスのよい兵卒として困難を耐え忍んでほしいものである。その時、イスラエルは、神にあって力強く、神の勢いによって前進するのである。
初代文集 電子版P65

神は神の民を清め精練するために、彼らに苦い杯を飲ませられることを、わたしに示された。それは苦い杯である。そして、不平不満呟きによって、それをさらに苦くすることができる。しかし、このようにしてそれを受ける人々は、もう1つの杯を飲まなければならない。なぜならば、最初のものが、心にその意図された効果をあらわさなかったからである。もし2度目の杯が効果をあらわさなければ、その効果があらわれるまで、彼らはまたその次も、そしてまたその次の杯も、飲まなければならない。さもなければ彼らは、その心が汚れたまま放置される。この苦い杯は、忍耐、辛抱強さ、祈りによって甘くすることができ、それをこうして受ける人々の心に、その意図された効果をあらわし、神に栄光と誉れとが帰せられることをわたしは見た。キリスト者となり、神のものとなり、神に嘉されるということは、生やさしいことではない。主は、現代の真理を信じると言いながら、生活が、その言うところと一致していない人々を、わたしにお示しになった。彼らの信仰の標準はあまりにも低く、聖書の聖潔にははるかに及ばない。むなしい行状にふけり、利己心をほしいままにしているものもある。われわれは、自分を喜ばせ、世の中の人々と同様の生活と行動をなし、世の快楽にふけり、世の中の人々との交わりを楽しみながら、キリストとともにみ国で支配することを期待することはできない。
初代文集 電子版P65,66

頂いたメール

昨日も投稿に記したが、自分が教員を辞めたことを心配してメールをくれたアニメーターを目指す彼女からその後も何度かメールを頂いた。今日届いたメールに次の様な内容が書かれていた。彼女は現在アメリカでデザインの勉強をしているが現在日本に戻ってきている。実家である京都の教会に毎安息日出席しているがそこにshioriさんというこれまた自分が勤務していた高校の卒業生が出席している。彼女は2年前の卒業生。非常に高い能力を有しているにも関わらず自己肯定感が低く、自信なさそうに生活していた生徒である。そのshioriさんがアニメーター志望の卒業生(年齢は2歳離れている。アニメーターの方が上)に教会で私のことを話したらしい。私がshioriさんの下駄箱に「時間があれば昼休みに教頭室にきてください」と手紙を入れて彼女を呼び出したこと、そして彼女に対して「あなたは自分では考えられないほどの能力に恵まれている。だから自信を持ってもっと胸を張って生きなさい」と激励したことを。勿論そのことは覚えている。shoriさんはその後何度も教頭室を訪れ時に涙を流したり、時に自分の生い立ちや苦境を話して帰って行った。shioriさんは現在薬学部に在学し製薬の勉強をしている。shioriさんはアニメーターの彼女に、私と出会って話していなければ自分は薬学部はおろか大学進学すら果たせなかっただろうと話していたらしい。そのことを今日のメールで報告してくれた。その様に評価してくださり嬉しいが、とても恥ずかしい。自分がその様な人間でないことをよく知っているから。生徒の方が私のことを美化してくれているにすぎないのだ。
ところで、この様なことを言われるとまた教員に戻りたい気持ちが再燃してきてしまう。自分は教育の世界から排除された人間で、教員に戻りたいという気持ちを封印しなくてはいけないと自分に言い聞かせて毎日を過ごしている。しかしその様なことをすればするほど、教員に戻りたくなる様なことが起こる。神様は一体私をどの様に導こうとしておられるのだろう。教員から遠ざけ、遠ざかったところで今度は教員に未練を感じる様な状況を与える。どういうことなのか、神様の御意志、ご計画がよくわからない。が、現在与えられている場所は青森であり仕事は病院の送迎係である。置かれた場所で咲かなくては。勿論教員に対する強い思いがある。が、今は教員ではなく資格がなくても誰にでもできる送迎係である。誰にでもできるこの場所で咲くことを真剣に考えないといけない。

神が置いてくださったところで咲きなさい。しかたないと諦めてではなく咲くのです。咲くということは、自分が幸せに生き、他人も幸せにすることです。咲くということは、周囲の人々にあなたの笑顔が「私は幸せなのだ」ということを示して生きることなのです。神が私をここに置いてくださった、それは素晴らしいことであり、ありがたいことだとあなたの全てが語っていることなのです。置かれたところで精一杯咲くと・・・・・それがいつしか花を美しくするのです。

キリストの香り 5『置かれたところで咲く』

 

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