ラザロは何処に

キリストの十字架

イエス様の十字架の場面を想像することがある。心が締め付けられそうに苦しくなる。自分の代わりに罪の代償として死んでくださって心から感謝します、という気持ちにはとてもなれない。自分とは全く身分の違うお方が何故自分のような汚れたもののために…と思ってしまう。十字架があまりにも長時間苦しむ死刑方法なのでこれは惨すぎる、と考案されたのがギロチンであると聞いたことがある。イエス様が本当に命を落として自分のような者を救ってくださった。奇跡であるが本当に申し訳ない話である。自分の何処にイエス様を十字架につけるだけの価値があるのか全く分からない。ただイエス様の死によって買い取られたから価値が生じたことは何と無く分かる。今日、エレンホワイトの「初代文集」という書物を読んでいたが丁度「キリストの十字架」という章を読んだ。ひとつひとつの言葉に重みがあり厳粛な気持ちで読ませていただいた。いくつか印象的な文章があったので抜粋してみた。

神のみ子は、十字架につけられるために、人々に引き渡された。彼らは、勝利の叫びをあげて、救い主を連れ去った。彼は、むちで打たれ、殴打されたための、疲労と苦痛と出血から、弱り衰弱しておられた。それにもかかわらず、彼がまもなく釘づけにされる重い十字架が、彼に負わせられた。イエスは、その重荷の下で気を失われた。彼の肩の上に十字架が3度ものせられ、3度とも彼は倒れられた。
エレンホワイト 初代文集 電子版P177

イエスの母もそこにいた。愛する母のみが知る苦悩によって、彼女の心はさし貫かれた。それでもなお、彼女は、弟子たちと同様に、彼が何か大きな奇跡を行って、殺害者たちの手から自分自身を救い出されると期待していた。彼女は、イエスが、ご自分を十字架につけられるままにしておかれるなどとは、とうてい考えることができなかった。しかし、準備はなされて、イエスは十字架の上に横たえられた。金づちと釘が運ばれてきた。弟子たちは、気を失いそうになった。イエスの母は、耐えきれない苦悩に身をかがめた。弟子たちは、救い主が十字架に釘づけにされる前に、その場から彼女を連れ出し、彼の柔らかい手と足の骨や筋肉に釘が打ちこまれる大きな音を聞かすまいとした。イエスは、つぶやかれなかったが、苦痛のあまりうめき声を出された。彼の顔は青ざめ、その顔には、大きな汗のしずくが浮かんでいた。サタンは、神のみ子の苦悩を見て狂喜したが、救いの計画を妨害する彼の努力が無駄になり、彼の王国は失われ、彼はついに滅びなければならないのではないかと恐れた。
エレンホワイト 初代文集 電子版P178

イエスは、十字架にかかって、長時間にわたって苦悩しておられた時に、ご自分の母親をお忘れにならなかった。彼女は、恐ろしい場面にもどってきていた。なぜなら、彼女は、自分の子から長く離れていることができなかった。イエスの最後の教訓は、思いやりとやさしい心遣いに関するものであった。彼は彼の母の悲嘆に暮れた顔をごらんになった。そして、それから、彼の愛する弟子ヨハネをごらんになった。彼は、彼の母に、「婦人よ、ごらんなさい。これはあなたの子です」と言われた。それから、彼は、ヨハネに「ごらんなさい。これはあなたの母です」と言われた。その時以来、ヨハネは、イエスの母を自分の家に引きとった。
エレンホワイト 初代文集 電子版P179

キリストの生涯には、この世の富、栄誉、虚飾が伴ったことはなかった。彼の謙遜と自己犠牲は、祭司や長老たちの誇りと放縦とに対して、著しく対照的なものであった。彼のしみのない純潔さは、彼らの罪に対する絶え間ない譴責であった。彼らは、彼が謙遜で清く純潔であられるために、彼を侮った。しかし、この世で彼を軽べつした人々は、いつか、天の威光と、彼の父のこの上もなく輝かしい栄光に包まれた彼を見るのである。
エレンホワイト 初代文集 電子版P180

ラザロは何処に

随分前から暇さえあれば考えていることがある。それは十字架の場面でラザロは何処にいたのか?ということだ。ラザロはマルタ、マリアの弟でイエス様によって死から蘇らせていただいた人物である。イエス様はベタニア村にあるこの3兄弟の家にしばしば行かれた。自分も以前にここを訪れたことがあるがエルサレムからそれほど遠くないところに彼らの家がある。エルサレムでの奉仕があるときには必ず仕事を終えて彼らの家に立ち寄っていたのかもしれない。もしかしたら定宿にしていたのかもしれない。勝手な想像だがイエス様が必ず座る椅子、イエス様の使う食器など専用のものがあったのではないかと思う。ラザロの復活後、この奇跡を聞いた人々が生き証人であるラザロを一目見ようとこのベタニア村の小さな家を訪れていたことが聖書に記されている。復活したラザロを見てイエス様を信じるようになった人も少なくない。このことに危機感を持った祭司長たちはイエスだけでなくラザロも殺すことにした。そのことがヨハネによる福音書に書かれている。

大ぜいのユダヤ人たちが、そこにイエスのおられるのを知って、押しよせてきた。それはイエスに会うためだけではなく、イエスが死人のなかから、よみがえらせたラザロを見るためでもあった。
そこで祭司長たちは、ラザロも殺そうと相談した。

Much people of the Jews therefore knew that he was there: and they came not for Jesus’ sake only, but that they might see Lazarus also, whom he had raised from the dead.
But the chief priests consulted that they might put Lazarus also to death;

ヨハネによる福音書12:9,10

この殺害計画にためラザロは家にいることができず逃げたことだろう。そしてその後すぐにイエス様の十字架になってしまう。イエス様の十字架に備えて埋葬の準備としてラザロの姉マリヤは高価で純粋なナルドの香油をイエス様の足に塗りそれを自分の髪の毛で拭いた。誰よりも、何よりもイエス様のことを考えるこの一家、特に復活させていただいたイエス様から「我が友ラザロ」とさえ言われるほどの間柄である。ラザロがイエス様の十字架の場面にいないとは考えにくい。十字架の混乱で人々はゴルゴダへと行き、少し離れたベタニア村は閑散としていたのかもしれない。人気のないことを確認してラザロは一度家に戻り、イエス様の座っていた場所、イエス様の使っていた食器を触りながら自宅で語ってくださったひとつひとつの言葉を思い出し反芻したのかも知れない。清らかで楽しかったことが次々と思い出され号泣していたかも知れない。いても立ってもいられず、人目を避けるように隠れながらゴルゴダの丘が見えるところまで行ってイエス様のことをずっと見ていたのではないか。自分は勝手にそのようなことを考えている。そして、自分はその十字架の場面でどこにいるのだろうと考える。群衆の中にいて人々とともにイエス様を嘲笑していたのではないか。倒れ込んだイエス様を見てその汚い体が自分に接触しないようにと体を避けたのかも知れない。もしかしたら野次馬根性でイエス様に唾をかけたり叩いたりしたのかも知れない。自分は十字架の場面で何処にいたのだろう。

 

十字架より叫びきこゆ

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