心配を抱えながら

家族で礼拝

今朝早く姉夫婦が実家にきてくれた。時間がないのに無理してきてくれたようだ。昨晩も母は痛みを訴えかなり辛そうだった。肩を揉んだり目を温めるシートを貼ったり気休めにアイスを食べさせるなどをしたが勿論痛みが取れることはない。本当に苦しそうにしていた。何でこの年齢でここまで苦しまないといけないのかと疑問を持ってしまう。そのような痛みの中でも姉夫婦が来てくれる事は安心につながるようでとても嬉しそうだった。看病する父もホッとした様子だった。

先日、どうしても痛みが取れず病院に行こうとしたがタクシーを上手に呼べなかったらしい。途方に暮れて路上で困っていると、見ず知らずの若い女性が事情を聞いてくださり病院まで送ってくださったという。お礼をしたいので名前や住所を何度も聞いたらしいがその女性は一切それには答えず病院まで丁寧な運転で連れて行ってくださったとのこと。「恐らくそれは神様が遣わしてくださった天使だね」と言ったら納得していた。一事が万事この調子だから二人をこのままにしておくことが不安で仕方ない。しかし両親はどうしても二人でやって行きたいときかない。

そんな両親、姉夫婦と自分の5人でオンラインでの礼拝プログラムに参加した。大きな声で讃美歌を歌い祈る両親の姿を見て、「教会に行きたいんだろうな」と思った。東京に住んでいたときは祖父母の代から、原宿にある「東京中央教会」に通っていた。自分もこの教会に長いこと通っていたから愛着のある母教会である。小学生の頃は、教会で「連続講演会」なるものが開催されると父や祖父に連れられて手伝いに行った。当時の原宿は結構閑散としており国鉄の駅から教会までの道のりに信徒が道案内として提灯を持って立つ。その役をいつもさせられていた。それほど時間は経っていないように思うが原宿は全く別世界になってしまった。

それにしても、家族で同じ信仰を持ち一緒に心を合わせて礼拝できる事は何と恵まれていることか。このような危機的な状況ではあるが、神様を知る祝福を痛感している。

やはり心配

痛み苦しみ、夜中に鳴き声をあげるような状態の母をそのままにしてまた青森に戻ることが本当に辛くてたまらない。今日は姉夫婦が別の用があると言って自分よりも一足先に実家を出た。いっぺんに人が居なくなると両親も落ち込むかもしれないと思い、自分はそれから1時間ほどして実家をでた。

先週同様また三人で祈った。心から祈った。神様ならこの痛みを簡単に癒すことができる。それを信じて心から祈り家を出た。今まで横になった状態で動けなかった母が、「お母さん、これから青森に戻るけど何かあればすぐに来るから遠慮なく連絡してね」というと、すくっと起き上がり立ち上がった。これには驚いた。今までトイレに行くときも父に支えられながらやっとの事で立ち上がっていたのに、自力で何の支えもなく起き上がってくれた。辛いのに、痛いのに、少しでも息子を安心させようとする母の思いなのか。切なくなる。今回は必ずしようと思っていた、母の方を揉むこともできた。これからどういう展開になるのかは神様にしか分からないが、今自分ができることを後悔なくやっておくことが最善だと思っている。

癒し

時間とお金を掛けて実家に帰省する。最初は母のことが心配、看病する父のことが心配という一心で帰省したが2回目の今回は少し違った気持ちになっている。勿論両親のことが心配でならない。が、久しぶりに自分が必要とされていることに気づきそれが嬉しくて今回の帰省に至った気がしている。普段の仕事をしていて、決して自分が必要とされている訳ではないことを痛感している。資格や経験がある訳ではない。運転免許があれば誰にでもできる仕事をしている。自分がいなくなればシフトの面で数日混乱するかもしれないが大きな影響はない。誰か別の人を雇えば済むことで、自分である必要はない。しかし、両親のお世話はたとえそれが真似ごと程度のものであっても自分にしかできないことである。ヘルパーさんを雇うこともできるが、実の子どもにしかできないこともある。お金さえあれば毎週帰省しても良いと思っている。自分の心が癒される経験をするために。

「山は移り、丘は動いても、 わがいつくしみはあなたから移ることなく、 平安を与えるわが契約は動くことがない」と あなたをあわれまれる主は言われる。」
イザヤ書 54:10 口語訳

2021年10月16日 「ペンテコステ」 安息日礼拝LIVE配信(メッセージは8:55から)

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