死の真っ白画面

word press

昨晩、かなり動揺することがあった。自分にとってはもはや事件でもあった。夜、ブログの投稿記事を書いていつものようにアップロードしようとしたときのことである。自分はいつもエディターに下書きをしてその原稿をword press上にコピーしている。そしてコピーして仕上げた記事(HTML、CSSになったもの)をもう一度エディターにコピーする。万が一投稿記事が無くなったとしても手元に原稿が残るようにしている。ブログを始める時にどのような方法で始めるかを随分悩んだ。記事の方向性などもそうだが、投稿する環境についてかなり考えた。SNSの知識がなくコンピュータの知識も乏しい。色々なトラブルがあったときに自分では対処できないのでその辺の保守も含めて面倒を見てくれるところを頼るべきか。無料のブログサイトでとりあえず始めるか、等々。そのときセブ島で働く卒業生やフリーでwebデザイナーをする卒業生と連絡をとっていたので相談したところ3人とも「絶対にword pressが良いですよ。それほど難しくないですよ」とアドバイスしてくれた。彼らの言葉に背中を押されロリポップでサーバーを借りword pressを導入した。実際彼らは常に相談に乗ってくれ助けてくれた。環境もある程度整い「毎日投稿」できるようになっておよそ1年半。実は昨晩、投稿するための「管理画面」が急に開けなくなった。初めは自分のネット環境のせいだと思っていた。が、他のページはきちんと読み込める。管理画面だけが全くの白紙になっている。心当たりはないがおそらく自分が間違った操作をしたのだろうと必死に関連する記事を探した。検索すると必ず出てくるのが「word press 死の真っ白」というキーワードだ。多くの方が経験していることのようだ。自分の場合は管理画面に入れないことが問題だった。ページが存在しないと出てくる。かなり焦った。投稿が全て消えたのかもしれない。大した記事を書いているわけでもないので無くなったところで日常生活に支障が出るわけでもない。が、何故か今までの投稿が無くなることは惜しかった。結局3時間以上格闘したがダメだった。ネット環境を変えるためにマックや職場に行ってみたが結果は同じだった。「もう、投稿するのはやめなさい」と神様が言っておられるのかもしれない、と思った。

もう一度

諦めてコンピュータの電源を落とした。そして眠ろうとしたときに「もう一度祈ってからコンピュータを立ち上げなさい」と言われた気がした。「自分には目的がって毎日投稿して来ましたが、神様の御心が違うところにあるのでしたらブログから離れることができるようにしてください。しかし、自分の思いとしては更に投稿を続けたいです。最終的には神様にお従いしますので御心を示してください」と祈りもう一度mac bookの電源を入れた。因みにネットの環境はiphoneのテザリングを使用している。だからかなり貧弱である。Macを立ち上げテザリングの設定をしてもう一度祈ってから管理者画面のアドレスを入力するといつものようにword pressの管理画面、そしてダッシュボードが出て来た。今まで3時間格闘して決して改善されなかったのにいとも簡単に直ってしまった。この3時間の間にキャッシュを空にする、コンピュータの電源を切る作業は何度もした。が、直らなかった。本当に不思議な体験だった。23時を回ったところでやっと投稿できた。

神様に委ねる、任せる

病人の癒しを求めて必死に祈る。オリーブ油を用いた特別な祈りをする。ある人は癒され、ある人は地上生涯を一旦終える。この差は何なのか。何かの法則があるのだろうか。あるいは神様の気まぐれなのだろうか。そんな疑問を持ったことがある。瞬間的にきかれる祈りもあれば13年間祈り続けてきかれるものもある。そして祈った通りの道が開かれないこともある。神様に主権があるのでこの結果に対して人間は何も言うことができない。神様に主権があることを人間に分からせるためにそうするのだろうか。決してそうではないと思う。イエス様は悲しむものと共に悲しみ、泣くものと共に泣かれるお方である。当事者よりも心を痛められるお方である。「なら、何故?」という問いに答えることはできないが、イエス様の最高の愛によりそれ以外の道が開かれなかった、ということなのだと信じている。必死に祈りながら、しかしその愛の回答については委ねお任せするしかない。それが最善の道だから。

イエスは、あるいやしの場合には、求められた祝福をすぐにはお与えにならなかった。ところがこのハンセン病人の場合には、訴えがなされたとたんに祝福が与えられた。この世の祝福を祈り求める時に、われわ れの祈りに対する答えは遅れるかも知れない。あるいは神はわれわれの 求めるものよりもほかのものをお与えになるかも知れない。
しかし罪からの救いをもとめる時にはそうではない。われわれを罪からきよめて神の子とし、聖なる生活を送ることができるようにしてくださ るのが神のみこころである。「キリストは、わたしたちの父なる神の御旨 に従い、わたしたちを今の悪の世から救い出そうとして、ご自身をわたしたちの罪のためにささげられたのである」(ガラテヤ 1:4)。「わた したちが神に対していだいている確信は、こうである。すなわち、わたしたちが何事でも神の御旨に従って願い求めるなら、神はそれを聞きいれて下さるということである」(Iヨハネ 5:14)。「もし、わたした ちが自分の罪を告白するならば、神は真実で正しいかたであるから、そ の罪をゆるし、すべての不義からわたしたちをきよめて下さる」(Iヨハ ネ 1:9)。
各時代の希望電子版 p256 257きよめていただけるのですが

再:2022年5月28日 「新しい天と新しい地」 安息日礼拝LIVE配信 編集済み

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