何で泣いたんだろう?

今日のこと

10時からの集会に出席するために10分前に到着できるよう家を出た。が、教会についてみるとすでに集会が始まっていた。今日は9時30分から開始だったとのこと。結構こういうことがある。週によって集会の開始時刻が変わり、またその連絡があまり徹底されていないのがこの教会の特徴かもしれない。恵まれた集会と礼拝の時間を過ごして家に帰ってきた。安息日は教会で祝福された余韻に浸りたい気持ちがありまず聖書通読の続きをした。通読を始めてから2週間が過ぎたが毎日10章を読むことは続いている。今日は民数記。明日から民数記の続きと申命記になる。通読の後ヨブ記の聖書研究をしてその後、色々なところで行われた礼拝を視聴した。広島教会、東京中央教会などいつもの順番で視聴したが光風台教会の順番になった。本当に申し訳ない視聴の仕方なのであるが、光風台教会は牧師先生のメッセージの時は視聴しその他の方がお話をされる時はパスして昼食をとる。今日は残念ながら牧師先生の話ではなかったので昼食にしようかと思ったが、一瞬聞こえた礼拝メッセージの声が聞き覚えのある懐かしい声だったのでそのまま視聴した。ずっと昔から友人であり尊敬する先輩でもある上谷先生が礼拝のメッセージをしていた。まず子ども向けの話に非常に感動した。是非視聴していただきたいのでネタバラシはしないがとにかく良い話だった。そして大人向けの話がとても良かった。先生の教師として経験された事を元にメッセージは進んで行く。この話の中に投稿のタイトルでもある「何で泣いたんだろう?」という言葉が出て来る。詳しくは是非視聴していただきたい。

実物教訓

前述の礼拝メッセージを視聴しないと意味が分からないと思うが、自分は教員をしている頃あることがあまり好きではなかった。集団の中に何かができない生徒、助けを必要としている生徒を中心にみんながその生徒に手を差し伸べることによって集団が強い絆で結ばれて行く、という展開やそのような教育手段である。確かにその効果はある。あるが多くの場合その集団に目を向けて教育効果を評価する。しかしその「できない生徒」がどういう気持ちでいるかにはあまりスポットが当たらない。自分はそのような生徒の気持ちが気になってしまうのでこのような手法が好きではないのだ。今回のメッセージのもそのような話が出て来る。しかし、なぜか嫌な気持ちになることはなかった。違和感を感じることもなかった。何故だろう。今日はずっとその事を考えていたが、ひとつの答えにたどり着いた。それは、メッセージを語る上谷先生が本当の弱者の気持ちを十分に分かっている先生だからだ。色々な事情を抱えながら、それでも前向きに感謝を忘れずに生活する上谷先生の人柄を知っているからだと思う。本当の苦しみを知っている人の生き方は何も語らなくても人に訴える力がある。上谷先生は正にそのような方だと思う。とても良いメッセージなので是非視聴していただきたい。

2021年5月22日 安息日礼拝〈ライブ〉

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