信仰がなくては

今日の御言葉

毎朝届く聖書の言葉であるが、送迎車に乗って車を走らせる直前に送られてくる。その御言葉を読んで瞑想しながら短く祈って車を出すのが日課になっている。今日の御言葉は次の言葉だった。

イエスは彼に言われた、「もしできれば、と言うのか。信ずる者には、どんな事でもできる」。
マルコによる福音書9:23

この部分だけだとどのような流れで、誰に対してイエス様が言われたのかが分からないのでその前後を見てみると次のような話であった。

「さて、彼らがほかの弟子たちの所にきて見ると、大ぜいの群衆が弟子たちを取り囲み、そして律法学者たちが彼らと論じ合っていた。 群衆はみな、すぐイエスを見つけて、非常に驚き、駆け寄ってきて、あいさつをした。 イエスが彼らに、「あなたがたは彼らと何を論じているのか」と尋ねられると、 群衆のひとりが答えた、「先生、口をきけなくする霊につかれているわたしのむすこを、こちらに連れて参りました。 霊がこのむすこにとりつきますと、どこででも彼を引き倒し、それから彼はあわを吹き、歯をくいしばり、からだをこわばらせてしまいます。それでお弟子たちに、この霊を追い出してくださるように願いましたが、できませんでした」。 イエスは答えて言われた、「ああ、なんという不信仰な時代であろう。いつまで、わたしはあなたがたと一緒におられようか。いつまで、あなたがたに我慢ができようか。その子をわたしの所に連れてきなさい」。 そこで人々は、その子をみもとに連れてきた。霊がイエスを見るや否や、その子をひきつけさせたので、子は地に倒れ、あわを吹きながらころげまわった。 そこで、イエスが父親に「いつごろから、こんなになったのか」と尋ねられると、父親は答えた、「幼い時からです。 霊はたびたび、この子を火の中、水の中に投げ入れて、殺そうとしました。しかしできますれば、わたしどもをあわれんでお助けください」。 イエスは彼に言われた、「もしできれば、と言うのか。信ずる者には、どんな事でもできる」。 その子の父親はすぐ叫んで言った、「信じます。不信仰なわたしを、お助けください」。 イエスは群衆が駆け寄って来るのをごらんになって、けがれた霊をしかって言われた、「言うことも聞くこともさせない霊よ、わたしがおまえに命じる。この子から出て行け。二度と、はいって来るな」。 すると霊は叫び声をあげ、激しく引きつけさせて出て行った。その子は死人のようになったので、多くの人は、死んだのだと言った。 しかし、イエスが手を取って起されると、その子は立ち上がった。 家にはいられたとき、弟子たちはひそかにお尋ねした、「わたしたちは、どうして霊を追い出せなかったのですか」。 すると、イエスは言われた、「このたぐいは、祈によらなければ、どうしても追い出すことはできない」。」
マルコによる福音書 9:14-29 口語訳

口をきけなくする霊が取り憑いている少年の父親がイエス様に何とかしてもらいたいと思っている場面である。イエス様は悪霊の追い出しを幾度もされているがその多くが霊との対話から始まる。以前に聞いた話であるが聞くことも喋ることもできない霊だと対話ができないので追い出すのが非常に難しいとのこと。実際に弟子達はこの霊を追い出すことができなかった。イエス様の名声は聞いているが、弟子達の力量からすれば先生であるイエス様の力も少し怪しいものだ、と思っていたかもしれない。事実、「もしできるようでしたら」という表現でイエス様にお願いしている。この言葉には「できないかもしれません。あなたの弟子達ができなかったのであなたにも難しいのかもしれません。しかしもしもできるようでしたらどうか息子を助けてください」という気持ちが込められているように思う。イエス様はご自分の力がどれほどであるかを言っているのではなく、この父親が信じているのかを問われた。慌てた父親はすぐさま前言撤回で「信じます」と叫んだ。そしてこの信仰告白によってイエス様は行動された。

信仰とは

信じる、という言葉にはいくつかの意味があると思う。人を信じる(信用する)、ある出来事が起こると信じる、願ったことが叶うと信じる等々。聖書では信仰を次のように定義している。

「さて、信仰とは、望んでいる事がらを確信し、まだ見ていない事実を確認することである。」
ヘブル人への手紙 11:1 口語訳

自分は今見えているものから、見えていないものがどのように展開実現して行くのかを予測するタイプである。多くの人がそうであると思う。見えているもの、即ち現実の世界から受ける情報は膨大で性格で緻密である。だからそれを見ているば次にどのようなことが展開されるかはおよそ想像がつく。自分は現実の世界からの情報でこれから自分に起こることを想像し落ち込んでしまうのである。神様を信じていると言いながら、現実を見れば見るほど「幾ら神様でもこれは無理でしょ」と思ってしまう。しかし聖書はまだ見ていないことを事実として確認する作業が信仰だと教える。神様が御手を動かせばその奇跡とも思える出来事は必ず成就する、と言っているのである。そしてこの信仰がなかった弟子たちの不信仰を嘆枯れた。また聖書の別の場所には信仰が無いことに対して神様がどう思っているかが書かれている。

「信仰がなくては、神に喜ばれることはできない。なぜなら、神に来る者は、神のいますことと、ご自分を求める者に報いて下さることとを、必ず信じるはずだからである。」
ヘブル人への手紙 11:6 口語訳

信仰がないことを神様は悲しまれる、少なくとも喜んでは下さらないというのだ。ある書物には「不信仰は罪である」と記されている。信じたい、しかし現実の世界が全てになっている自分にはなかなか信じることができないことがたくさんある。そしてその状況を神様は悲しんでいらっしゃる。ならば、自分にない信仰を求めるしかない。

今日与えられた御言葉から、神様に喜んでいただける信仰について考えることができた。

最近面白い牧師先生のチャンネルを見つけた。メインチャンネルはとても霊的に満たされている。次の投稿も非常に感動した。同様にサブチャンネルは全く違った雰囲気でとても面白い。是非視聴していただきたい。

【アドベンチストそのむかし】1.ジョン・ラフボロー

 

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