突然に

今日の出来事

今日も送迎の仕事でハプニングがあった。毎日何かが起こる。今日はまず外来に来ていた2人のおばあさんを送ることになった。初めての方だったので「初心者で道がわからないのでご自宅までの道案内をお願いします」と挨拶をした。何となく怪訝そうな表情の2人。こちらは道案内をして欲しいのだが2人はおしゃべりに夢中になっている。その都度「この信号はまっすぐに行ってよろしいですか」と聞かないといけない。標準語しか喋れない自分だが、標準語はどこでも通じると思ってはいけない。津軽弁を話す人にとっては標準語は理解できないようだ。「まっすぐ」という言葉が伝わらない。また「みぎ(右)」は少し「めぎ」と発音しないと通じない。同様に「ひだり」は「へだり」。1人のおばあさんは何とか自宅まで送り届けられたがもう1人のおばあさんは多少認知症もあるようで「ここをまっすぐ行ったら右に入る道がある」と言っているがそれらしき道は見当たらない。そのうち大声で「何で右に道がないの?運転手さん、あんた間違ったでしょ!」とすごい剣幕で叱られた。こちらは道案内の通りに運転しているのだがあるはずの道がないという理不尽な理由で叱られる。どうやら自分でも自宅がわからない様子なので病院に電話をして住所を聞きスマホのナビで検索してことなきを得た。後ろの座席から肩を叩かれたりするからお年寄りといっても恐怖を感じる。しかも道がわからない自分が使う車だけナビがついていない。スマホがなかったら今頃どうなっていたのだろう。因みに、最初におろしたおばあさんは「おいくらですか」と言ってきた。完全にタクシーと間違えている。「これは病院の無料送迎者ですからお支払いの必要はありません」と言ったら、先ほどまでのぞんざいな態度から一転「どうもありがとうございます」とお礼を言って降車された。したたかである。

ところが

仕事が間も無く終わる時刻になって、何故か急に家族のことを思い出した。いつも家族のことを考えて祈り続けているのだが、急に会えない家族を思って極限の寂しさに落ち込んでしまった。時々こういうことがある。こうなると文字通り一歩も歩けなくなってしまうのだ。ただ涙しか出てこない。仕事場だったので必死に涙をこらえてダッシュで家路についた。家に帰ってきたら余計に寂しい気持ちになった。泣いていても何かが変わるわけではない。とにかく心が落ち着くまで聖書を読み続けた。現在4日目の聖書通読。今日は創世記31章から40章までを読む予定だったのでそこを読んだが気持ちは落ち込んだまま。聖書通読のペースは変えたくなかったので、創世記の最初に戻ってまた読み返した。こんなことを繰り返しているうちに少しだけ気持ちが落ち着いてきた。

毎日必死に祈っているのに神様は何故自分の祈りに応えて下さらないのか、祈りかたがまずいのか、信仰が足りないのか。よく分からないがとにかく自分の祈りのほとんどが聞かれない。

どうでも良い祈りを毎日お題目を唱えるように祈っているわけではない。願い事に関してはどうしても神様に聞いてもらわないといけないことを祈っているのだ。形式的に祈っているわけではない。心を込めて祈っているのだ。だから1時間以上も祈りにかかるのだ。なのに神様はこの祈りを聞いていてくださらない。それでも他に方法がないから祈り続けるしかない。

エレン・ホワイトの書物に以下のような言葉があった。

「あなたは失望し、あなたの意思と方法は否定されるかもしれない。しかし、主はあなたを愛して下さると信じなさい。炉の火は、あなたに対して燃えるかもしれないが、それはあなたを滅ぼすためではなく、不純物を燃やすためであり、あなたに7倍も清められた金として出てくるためである。」

「キリストはすべての人の苦しみ、すべての人の悲しみを知っておられる。彼はご自分と軛を共にするすべての魂の軛の重さを知っておられる。私たちが心の奥底に感じていても表現することのできない悲しみを知っておられる。たとえ人が私たちに同情してくれなくても、誰も同情してくれないと感じるには及ばない。キリストは知っておられる。」

Golden Angels 6  Still

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